正午を過ぎたころ、バルのカウンターに人が増えてきます。まだ食事の時間ではありません。手元には小ぶりのグラスと、オリーブの小皿が一つ。
アペリティフとは、食事の前に軽い酒とつまみを口にして、胃と場を温める習慣のこと。スペイン語ではアペリティーボと言います。ラテン語の「開く」に由来する言葉です。
開くのは、胃だけではありません。会話も、その場の空気も開いていく。

食前酒が果たす役割
体の側から言えば、理屈は単純です。
苦みと酸、そして適度なアルコール。この三つが唾液と胃液の分泌を促します。空腹のまま重い料理に向かうより、軽く刺激を入れておいたほうが、体が食事を受け入れやすくなる。だから食前酒には、甘いだけのものよりも、苦みや酸のあるものが選ばれます。
もう一つ、実務的な役割もあります。食事が始まるまでの時間を、退屈にしない。 スペインの昼食は遅く、夜はもっと遅い。食事の時間割そのものが日本と違うので、その待ち時間を埋める仕組みが必要になったとも言えます。
食後に居座るソブレメサが食事の終わりを引き延ばすなら、アペリティーボは食事の始まりを前に伸ばす。前後に長い時間を持つのが、あの国の食卓の形です。
何を飲むか
定番はベルモットです。ワインに薬草や香草で香りをつけた酒で、苦みと甘みが同居している。氷を入れ、オレンジの輪切りとオリーブを添えて出されます。日曜の昼前にこれを飲む習慣には専用の呼び名まであるほどです。
ヘレスの辛口も、食前には理想的です。塩気があり、キレがあり、料理を待つ間に胃を重くしない。海辺の町で熟成させたマンサニージャなら、いっそう軽やか。生まれ故郷のヘレスの町では、これが日常の一杯です。
泡もよく選ばれます。熟成の短いカバは、軽快で場を明るくする。炭酸が舌をリセットしてくれるのも利点です。
そしてビール。小さなグラスで冷えたものを一杯。これがいちばん多いかもしれません。
共通しているのは、量が少なく、度数が高すぎず、後を引かないこと。食前酒で満腹になっては本末転倒です。
添えられる小皿
酒だけでは出てきません。必ず何かがついてきます。
アセイトゥナスが最も多い。塩気と苦みが、酒の性格と揃います。ピコスのような硬い小さなパン、ポテトチップスや乾いた木の実。手が汚れず、会話を邪魔しないものが選ばれます。
もう少し本格的になると、イベリコ豚の生ハムを数枚、腸詰めを薄く切ったもの、ボケロネスやエンサラディージャの小皿。このあたりまで来ると、タパスとの境目は曖昧になります。
実際、境目を厳密に決める必要もない。立ち飲みのカウンターで酒と小皿が出てきたなら、それがアペリティーボです。
料理との相性、そして卓へ
食前酒を選ぶとき、そのあとに何を食べるかを考えると精度が上がります。
海のものが続くなら、辛口の白か塩気のある酒を。ガリシアの魚介やプルポが控えているなら、その流れでリアス・バイシャスの白へつなぐ手もある。
肉が主役なら、少し骨格のあるものを。ただし食前に重い赤を開けてしまうと、本番の一本が霞みます。ペアリングの考え方で言えば、食前は「軽いほうから始める」原則を守るのが無難です。
薪火の料理や炭火の熟成肉が控えている夜なら、なおのこと。最初の一杯は軽く、短く。
食事は、席に着いた瞬間から始まっています。当店でも、まずは一杯からどうぞ。ほかのワインの話はコラム一覧からどうぞ。