海沿いの道を走ると、視界の左右で景色が入れ替わります。乾いた石灰質の丘。その足元に広がる、水を張った平地。そしてオレンジの木が並ぶ畑。乾燥した国だと聞いてきた人ほど、この緑に驚きます。

バレンシア(Valencia)とは、スペイン東部、地中海に面した自治州のこと。州都バレンシアを中心に、南北に長い海岸線と、その背後の平野からなる土地です。そして何より、パエリアが生まれた場所として知られています。

なぜここで米なのか。答えは、水の在り処にあります。

水田地帯の風景

バレンシアとは

州の中心近くに、アルブフェラと呼ばれる大きな潟湖があります。海と隔てられた淡水の湖。その周囲に広がる湿地が、稲作の舞台になりました。

地中海性気候の夏は暑く、乾いています。ところが、この一帯には河川と潟が水を供給し続けた。乾いた気候と豊富な水、この二つが同時に揃う場所はスペインでも限られています。日照は稲の登熟を助け、水は根を支える。米作りには、ほとんど理想的な条件でした。

同じ地中海沿岸でも、カタルーニャが海と山を一皿に結ぶ発想を育てたのに対し、バレンシアは「平たい鍋で炊く米」という一点に土地の性格を凝縮させました。地形が違えば、料理の焦点も変わります。

水路が運んだ、米と柑橘

この土地の農業は、水路の歴史でもあります。乾いた平野に水を引き、区画ごとに配分する。アラブ支配の時代に整えられた灌漑の技術が、その後も受け継がれてきたといわれます。

水が届いた場所に、米が植わりました。そして水はけのよい斜面には、オレンジやレモンの木。バレンシアの柑橘は今もスペインを代表する農産物で、市場に並ぶ果物の一角を占めています。

米と柑橘。性格の違う二つの作物が同じ州で育つのは、土地の中に乾湿の落差があるからです。メルカドの棚を見れば、その落差がそのまま並んでいるのが分かります。海が近いので、魚介も同じ通路に揚がってくる。

平たい鍋で炊き上げられたパエリア

パエリアという発明

そもそもは、この土地の農民の食べ物でした。田で働く人が、手元にある材料を鍋に入れて炊く。鶏、うさぎ、いんげん豆、かたつむり。海の幸ではなく、畑と農家の周りにあるものです。それがパエリア・バレンシアーナの原型とされています。

決め手は鍋。浅くて広いパエジェラは、米を薄く広げて水分を素早く飛ばすための形です。かき混ぜない。だから底に「ソカラット」と呼ばれるおこげができ、それが目当てになる。

火は。オレンジの剪定枝を燃やして炊いた、という話が残っています。樹種によって香りが変わることを、作り手は経験で知っていました。色と香りを担うのはサフラン。少量で全体を染め上げる、この地方に欠かせない一品です。

米料理はここから枝分かれしていきます。イカ墨で黒く染めたアロス・ネグロ、米の代わりに細いパスタを使うフィデウア。同じ鍋、違う中身。応用の幅の広さが、この地方の米文化の厚みを物語ります。

野菜と魚介、そして炎

米ばかりが語られますが、畑の実力も相当なものです。トマト、ピーマン、いんげん、アーティチョーク。太陽を浴びた野菜は水分と甘みが濃く、そのまま焼くだけで味が立ちます。

海側では、小イカムール貝エビが揚がる。素材が良ければ、手を加えすぎない。粗塩オリーブオイル、そして炎。この三点で完成させる料理が多いのも、地中海側の共通した流儀です。

夏が長いので、火を使わない一皿も欠かせません。冷製料理が食卓に上がる季節が、他の地方より長く続きます。

ワインとの相性

米料理は、思いのほか相手を選びます。だしを含んだ穏やかな味わいなので、渋みの強い赤は米の甘みを覆ってしまう。

魚介中心のパエリアなら、キリッと冷えた白かロサード。この地方はガルナッチャ系のロゼも造っており、地元同士の組み合わせが素直にはまります。肉のパエリアや薪火の香りが強い皿には、軽めの赤を少し冷やして。温度の設定ひとつで、印象が変わります。

食後に果実を浮かべたサングリアを、というのも、柑橘の産地らしい締めくくりです。

水田と柑橘畑、そして平たい鍋。バレンシアの味は、水の通り道に沿って育ちました。ほかの地方の話は、コラム一覧からご覧いただけます。