えびもムール貝も、いかも入っていません。あの黄金色の平鍋を思い浮かべてバレンシアを訪ねた人は、まずそこで一度つまずきます。運ばれてくるのは鶏肉とうさぎ肉、そして豆。海が見えるはずの土地の名物に、海の幸が一切いないのです。
パエリア・バレンシアーナ(Paella Valenciana)とは、スペイン東部バレンシア地方に伝わる、パエリアの元祖にあたる一皿。鶏肉やうさぎ肉、いんげん豆などを米と炊き込んだ、魚介を使わない素朴なスタイル。日本でよく知られる魚介のパエリアとは対照的に、これは畑と農家の暮らしから生まれた料理です。その事実が、名前と姿の両方にはっきり刻まれている。
由来から具材、作り方、そして地域ごとの揺らぎまで、順に見ていきます。

パエリア・バレンシアーナとは
パエリアと呼ばれる料理群は広い。そのなかでこれは、発祥の地バレンシアが手放さなかった「本来の姿」にあたります。
そして主役は、米ではありません。具材の組み合わせです。鶏肉、うさぎ肉、いんげん豆(ガラフォン)、平たいさやいんげん(バジェタ)。これらを、パプリカ(ピメントン)やトマトのソフリートとともにじっくり炊き込みます。
ここに魚介を入れる、ソーセージを足す、玉ねぎを刻む——どれも地元では邪道です。具材の伝統に対する厳格さは、ほとんど掟に近い。
歴史・由来
バレンシアは、灌漑によって米作りが盛んな穀倉地帯です。それも米だけの土地ではなく、同時に豊かな畑作地帯でもありました。
始まりは19世紀ごろ。農民や労働者が畑仕事の合間に火をおこし、その場で手に入る食材を鍋ひとつで炊き込んだ屋外料理だった、といわれています。だから鶏。だからうさぎ。だから豆。豪華にしようとした結果ではなく、海から離れた土地の暮らしがそのまま鍋に入っただけの話です。
その素朴な鍋が、やがてバレンシアの祝祭と日曜の昼食に欠かせない一皿になり、地域の誇りとして受け継がれていきました。魚介のパエリアが世界を制圧したあとも、バレンシアの人々の答えは変わっていません。鶏とうさぎ、豆で作るこれこそが「本物」なのです。
伝統的な具材
材料表を見ても、華やかなものは一つも出てきません。
鶏肉・うさぎ肉を骨つきのまま香ばしく炒める。そこにいんげん豆類を合わせる——生の平さやいんげんと、乾燥させて戻した白いんげんの二種類です。
味の土台になるのは、トマトとパプリカで作る「ソフリート」。ここにサフランが色と香りを添え、旬にはかたつむりやアーティチョークが加わることもあります。米は、スープをよく吸うバレンシア産の短粒種。
つまり、原価の話をすればごく控えめな一皿です。それでも旨い。むしろ引くものが何もないから、火加減がそのまま結果になる。

作り方とソカラットのポイント
手順そのものは単純です。平鍋(パエジェーラ)で肉をしっかり焼き色がつくまで炒め、豆類とソフリートを加えて炒め合わせ、だしを注いで炊き上げる。以上。
ただし、米を入れてからやってはいけないことが一つあります。かき混ぜない。これが鉄則です。そして混ぜないからこそ、鍋底に香ばしいおこげ「ソカラット」が育ちます。手を出さないことが仕事になる、珍しい料理です。
火加減は、最初に強火で沸かし、そこから弱火でじっくり水分を飛ばす。伝統的にはオレンジの木の枝など、薪火で炊かれてきました。ここでも働くのは炎ではなく熾火です。じんわりとした熱が米の芯まで均一に届き、あの独特の香ばしさを置いていく。
地域のバリエーション
掟が厳格だと書いたばかりですが、村や家庭に降りていくと、具材や配合は少しずつ揺れています。かたつむりを入れる家庭もある。うさぎの代わりにあひるを使う地域もある。「唯一の正解」を突きつけてくる人は、実はどこにもいません。
それでも譲られないものがあります。鶏・うさぎ・いんげん豆・米・サフランという骨格。ここだけは動かない。動かないからこそ、元祖の名が保たれています。
なお、米の代わりに極細パスタで炊くフィデウアや、魚介をふんだんに使う「パエリア・デ・マリスコ」は、いずれもこの元祖から枝分かれした派生形。海のパエリアは、畑の子どもなのです。
料理・ワインとの相性
肉と豆のうまみが凝縮された、滋味深い一皿。だから前後に置くものは、軽いほうがいい。前菜にはパン・コン・トマテやクロケッタ、締めにイベリコ豚の生ハムを一枚——それだけで食卓はスペインの顔になります。
ワインは、しっかりとした果実味を持つ赤のテンプラニーリョか、軽やかなガルナッチャ。タパスを数皿はさみながら、鍋が来るのを待つ時間まで含めて楽しむのが本場の流儀です。当店Opus 6でも、薪火を使った料理とともに、こうした一皿をお楽しみいただけます。
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