山の斜面に、羊の群れが散っています。夏のあいだ高地へ移り、羊飼いは小屋で寝起きする。暖を取るための火は、一日中くすぶっている。搾った乳で作ったチーズも、その小屋の中に置かれていました。

イディアサバル(Idiazabal)とは、バスク地方とナバーラで作られる羊乳のチーズ。しばしば燻製にされることで知られています。

なぜ燻すのか。始まりは、意図したものではなかったと言われます。

熟成庫のチーズ

イディアサバルとは

原料は、羊の乳のみ。無殺菌乳で作られるものが伝統的とされます。

硬質から半硬質のチーズで、外皮は淡い黄色から褐色。燻製をかけたものは、外側が濃い飴色になります。断面は象牙色で、目の詰まった組織。

味は、羊乳らしい濃厚さとナッツのような香ばしさ。塩気ははっきりしていますが、カブラレスのような刺激はありません。強いけれど、荒々しくはない。 そこに燻香が重なります。

同じ羊乳のチーズでも、ラ・マンチャのマンチェゴとは別の性格です。あちらが乾いた大地の落ち着きなら、こちらは湿った山の香り。土地ごとにチーズの顔が違うことが、よくわかる対比です。

原産地呼称で産地と製法が定められており、使える羊の品種も限定されています。

燻製が生まれた理由

伝統的な説明はこうです。

羊飼いは夏場、家畜とともに高地の小屋で過ごしました。そこでチーズを作り、小屋の中で保管する。小屋には煙突のない暖炉があり、煙が室内に充満していた。チーズは自然と煙にさらされ、表面に燻香がついた。

つまり、偶然の産物。保存や虫除けの効果もあったと考えられますが、風味づけを狙って始めたわけではない、というのが定説です。やがてその香りが好まれ、意図的に燻すようになった。

似た経緯は、ほかの食品にも見られます。ピメントンが燻した香りを持つのも、乾燥のために薪の煙を使ったことに由来するとされる。薪火焼きの香りが生まれる仕組みを考えれば、煙が食品に与える影響は保存と風味の両面にわたります。

使われる木はブナやサンザシなど。薪の樹種が香りを変えるのは、チーズでも肉でも同じことです。

なお、燻製をかけないタイプもあります。どちらも同じ名前で流通しており、選ぶのは好みです。

羊と、山の暮らし

原料乳を出すのは、この地域固有の羊。粗放な環境に適応した品種で、乳量は多くありません。

搾乳量が少ないぶん、乳の成分は濃い。脂肪分とたんぱく質が高く、チーズにしたときの歩留まりと味の濃さにつながります。

夏に高地、冬に低地へ移る移牧の暮らしが、長くこの地域で営まれてきました。チーズ作りは、移動しながら乳を保存する手段でもあった。干し鱈生ハムと同じく、時間と場所の制約から生まれた技術です。

美食の聖地と呼ばれるバスクの食文化は、港町の魚介ばかりが注目されますが、山側にはこうした牧畜の伝統がある。小イカを扱う職人技と、山小屋のチーズ。同じ地域の、二つの顔です。

切り分けた羊乳チーズ

熟成と、食べ方

熟成期間は数か月から一年以上。長いものほど水分が抜け、味が凝縮し、組織がほろほろと崩れるようになります。

食べ方は、薄く切ってそのまま。パンに乗せる、あるいはピンチョスの一品として。バスクのバルでは、チーズとナッツ、そして果物の練り菓子を三点で出す組み合わせが定番です。

蜂蜜を少しかけると、塩気と燻香に甘みが乗って角が取れる。くるみとの相性も定評があります。

熟成の進んだものを削って料理に使うこともあります。燻香があるので、少量でも存在感が出る。焼き野菜に散らすと、薪の香りと同じ方向に重なります。

ワインとの相性

地元で合わせるのは、チャコリ。バスクの微発泡白ワインで、鋭い酸が羊乳の脂をきれいに切ってくれます。高い位置から注いで泡を立てる作法も含めて、この土地らしい組み合わせです。

赤なら、リオハのクリアンサ。樽由来のバニラ香が燻香と同じ系統で、無理なく重なります。テンプラニーリョ主体の落ち着いたものが向いている。

熟成の長いチーズには、リベラ・デル・ドゥエロのような骨格のある赤も。発酵が結ぶワインとチーズの相性は、こうした熟成同士の組み合わせでいちばんよく見えます。

暖炉の煙が、たまたま味になった。そういう来歴を持つ食べ物は、案外多いのかもしれません。ほかの話はコラム一覧からどうぞ。