ナイフを入れるのは、側面ではありません。上面を、円を描くようにぐるりと切る。持ち上げると、そこは蓋でした。中から現れるのは、とろりと流れ出す黄白色の中身。

トルタ・デル・カサール(Torta del Casar)とは、スペイン西部エストレマドゥーラ地方で作られる羊乳のチーズ。「トルタ」は円盤や菓子を意味する言葉で、平たい形からその名がつきました。熟成が進むと中心部が流動的になり、スプーンですくって食べる——それがこのチーズの標準的な作法です。

固まりきらないチーズ。しかしそれは失敗ではなく、意図された結果です。

木の板の上で切り分けられたチーズ

トルタ・デル・カサールとは

原料は羊乳。スペインのチーズが土地ごとに違う顔を持つなかでも、この一枚は質感で他と一線を画します。

同じ羊乳でも、マンチェゴは締まった固形のチーズ。切れば角が立ち、薄く削れる。ところがトルタは、熟成が進むほど中心がゆるみます。表皮だけが乾いて器のようになり、内側は流れる。同じ乳から、まるで違う質感が生まれるわけです。

味わいは濃厚で、わずかな苦みを伴います。この苦みが、単なる「濃いチーズ」で終わらせない骨格になっている。

アザミが乳を固める

このチーズを特徴づけているのが、凝乳に動物性のレンネットを使わない点です。

用いられるのは、アザミ科の植物の花から取った凝乳酵素。植物由来の酵素は、タンパク質の分解のしかたが動物性のものと異なると言われます。結果として、たんぱく質の網目が締まりきらず、熟成中にゆるやかにほどけていく。あの流動性の背景には、この選択があります。

そして、あの独特のほろ苦さも、アザミ由来とされています。ワインにおける土地が味を決めるという発想と同じで、素材の出自がそのまま味の署名になる。時間と温度だけで辛味が甘味に変わる黒にんにくのように、素材そのものの性質を利用した加工です。

産地であるエストレマドゥーラは、カスティーリャの素朴な食卓と地続きの、乾いた牧草地の広がる土地。羊を放牧する風土が、このチーズを支えています。

上面を切り開いたトルタ・デル・カサール

蓋を切って、パンですくう

食べ方は難しくありません。上面を薄く切り、蓋を外す。あとはスプーンか、パンで直接すくうだけ。

添えるパンは、香りの強くないものが向きます。土地ごとに違うスペインパンのなかでも、素朴な田舎パンや、バルで料理に添えられるピコスのような小型の硬いパンが定番。硬いパンの角で、とろりとした中身をすくい取る。

温度も味を左右します。冷蔵庫から出したてでは、中心が固くて流れません。室温に戻してから切るのが基本。ワインが温度で表情を変えるのと同じで、チーズも温度で別の顔を見せます。

バルのカウンターでは、小皿で分け合うタパスの一品として出てくることもあります。ひとつの器を、みんなでつつく。この形状は、そういう食べ方と相性がいい。

ワインとの相性

濃厚で、塩気があり、少し苦い。この三点が合わせるワインを決めます。

まず穏当なのは、樽熟成を経たクリアンサの赤。バニラや樽の甘い香りが、羊乳のクセを包み込みます。もう少し土地に寄せるなら、テンプラニーリョを主体にしたものや、リベラ・デル・ドゥエロの力のある赤も応えてくれる。

白なら、酸のはっきりしたものを。リアス・バイシャスの白は塩気と好相性で、脂の余韻を切ってくれます。発酵同士が結ぶワインとチーズの相性という観点でも、羊乳の濃さには酸か樽香のどちらかが要る、という考え方は覚えておいて損がありません。

食後に少し残ったら、締めくくりのポストレの前にもう一口。甘い菓子に移る前の、塩気の余韻として悪くない位置です。

固まらないことを欠点としない。そんな発想が、一枚のチーズを名物に変えました。ほかのチーズの話は島のチーズ、マオンコラム一覧からどうぞ。