厨房の隅に、大きなボウルが置いてあります。中身は赤い液体と、そこに沈んだ白身魚の切り身。ラップをかけて、冷蔵庫へ。明日の仕込みです。
翌日、その魚は小麦粉をまとって油に落とされます。揚がった衣の下から、パプリカとニンニクの香りが立ちのぼる。
アドボ(Adobo)とは、酢やオリーブオイル、塩、ニンニク、パプリカなどを合わせた漬け汁に、食材を一定時間漬け込む下ごしらえのこと。スペイン料理の基礎技法のひとつです。
なぜ、わざわざ漬けるのか。理由は複数あります。

アドボとは
漬け汁の基本構成は、酸・油・塩・香りの四つ。
酸は酢。油はオリーブオイル。塩は文字どおり塩。そして香りを担うのが、ニンニク、オレガノ、クミン、そして赤いパプリカです。地域や作り手によって配合は変わりますが、この骨格はおおむね共通しています。
漬ける時間は、素材によって数時間から一晩ほど。魚なら短く、肉なら長く。厚みと密度で判断します。同じ「寝かせる」でも、熟成肉のように酵素の働きを待つのとは目的が違い、こちらは外から味と酸を入れる作業です。
英語圏で言うマリネと重なる部分はありますが、スペインのアドボは香辛料の使い方に土地の性格が出ます。とくにパプリカの存在感が強い。赤く染まった食材は、それだけでスペインの厨房のものだと分かります。
保存と味付けを、同時に
冷蔵庫がなかった時代を考えると、この技法の意味がはっきりします。
酸性の環境は、多くの微生物にとって住みにくい。塩も同じく水分活性を下げ、腐敗を遅らせます。つまりアドボは、味をつけながら日持ちを延ばす仕掛けでもありました。
同じ発想の技法が、スペインにはいくつもあります。塩と乾燥で肉を保存する方法、そして揚げてから酢に漬けるエスカベチェ。原理は近いのに、順番が違う。
アドボは漬けてから調理する。エスカベチェは調理してから漬ける。この差が、仕上がりの性格を分けます。アドボは素材の食感が残り、エスカベチェは酸が芯まで入って冷菜になる。
塩漬けの干し鱈や腸詰も含め、スペインの保存技術はどれも「時間を味方につける」という一点で共通しています。

代表的な料理
最もよく知られているのが、アンダルシア発祥の「カソン・エン・アドボ」。サメの一種を角切りにしてアドボに漬け、小麦粉をまぶして揚げたものです。バルの定番タパスとして親しまれています。
南部の揚げ物文化の中でも、この料理は独特です。漬け込みによって身が締まり、酸が魚の匂いを和らげ、パプリカが香りを足す。揚げる前に、味の設計がほぼ済んでいる。衣一枚で勝負するカラマリとは、逆の方向から同じ地点を目指す料理です。
肉にも使われます。豚肉をアドボに漬けて焼く、あるいは腸詰にする前の下味として使う。パンセタや骨付き肉を漬けてから熾火で焼けば、香辛料の香りが煙と混ざります。
串焼きのピンチョ・モルノも、アドボに漬けた肉を使うのが一般的。赤く色づいた小さな肉が串に刺さっているのは、この下ごしらえの跡です。
味わいと、合わせるもの
アドボの効いた料理は、酸とスパイスが前に出ます。だから飲み物にも、それを受け止める性格が要ります。
揚げ物なら、冷えた白かロサード。酸には酸を合わせると、後味が軽くまとまります。温度をしっかり下げるのが要点です。
焼いた肉のアドボには、テンプラニーリョやガルナッチャの赤。パプリカの香りと、赤ワインの熟した果実味は同じ方向を向きます。食前にベルモットというのも、バルの流儀としては王道です。
漬けるという一手間が、保存と味の両方を担ってきた。アドボは、スペインの台所の合理性そのものです。ほかの技法の話は、コラム一覧からどうぞ。