三日前のパンが、台所の隅に残っています。硬くて、そのままでは食べられない。捨てるか、それとも。
トリハス(Torrijas)とは、硬くなったパンを牛乳やワインに浸し、卵をくぐらせて油で揚げ焼きにした菓子。仕上げに砂糖とシナモンをふります。スペインでは復活祭前の週、セマナ・サンタの時期に食べる習慣があり、この季節になるとパン屋や菓子屋の店先に並びます。
始まりは節約でした。それが今では、季節の行事になっている。

トリハスとは
作り方は素朴です。厚めに切った硬いパンを、温めた牛乳に浸す。砂糖やシナモン、レモンの皮で香りをつけた牛乳を使うことが多い。十分に吸わせたら、溶き卵をまとわせ、オリーブオイルで両面を焼き上げる。
外側は卵の膜が固まって香ばしく、内側は牛乳を吸って柔らかい。この落差が身上です。外はサクッと中はとろりというクロケッタと、構造の発想が近い。
牛乳の代わりに赤ワインや甘口ワインを使う地域もあります。ワインを使うと色が濃くつき、風味に酸と渋みが加わる。ワイン大国スペインらしい変化形です。
なぜ硬いパンなのか
柔らかいパンでは、崩れてしまいます。
パンは時間が経つとデンプンが老化して水分が抜け、組織が締まる。この状態だと液体を吸っても形が保てる。むしろ、乾いているぶん吸収量が多い。つまりトリハスは、パンが硬くなったことを利用した料理です。
スペインでは伝統的に、パンを毎日買い、余りを翌日以降に回す文化があります。土地ごとに違うスペインパンの多くは、水分が少なく硬くなりやすい。ソパ・デ・アホが硬いパンを煮込むように、サルモレホがパンでとろみをつけるように、余ったパンの行き先はいくつも用意されていました。
トリハスは、その系譜の甘いほう。煮込みに砕いたパンを加えるピカーダも含め、パンを捨てない工夫はスペイン料理のあちこちに息づいています。
セマナ・サンタと結びついた理由
なぜ復活祭前なのか。断定はできませんが、いくつかの事情が重なったと考えられています。
四旬節のあいだ、カトリックの伝統では肉を控える期間がありました。肉を使わず、卵と牛乳とパンで作れて、しかも腹持ちがいい。そういう菓子が求められる素地があった。
もうひとつは、栄養価。産後の女性に食べさせる滋養食だったという説も語られます。ただし、こうした由来は諸説あるので、断定は避けておきましょう。
季節の菓子という点では、クリスマスのトゥロンや公現祭のロスコンと並ぶ位置にあります。スペインの祝祭と食卓は、暦と密接に結びついている。この時期にしか作らない、という制約が、かえって存在感を強めています。
フレンチトーストとの違い
似ています。ほとんど同じと言ってもいい。
強いて挙げるなら、揚げ焼きに使う油。バターではなくオリーブオイルを使うのがスペイン流です。この選択が、後味の軽さと、わずかな青い香りを残します。
そして、シナモンと砂糖の仕上げ。チュロスの砂糖がけと同じで、揚げた表面に粉をまとわせる。レチェ・フリータもまた同じ仕上げで、揚げ菓子に砂糖とシナモンという組み合わせは、スペイン菓子の定型のひとつです。
パンの厚みも違います。トリハスは指二本分ほどに厚く切ることが多く、中心がしっとり残る。薄く焼いて軽く仕上げる発想ではありません。
合わせる一杯
甘く、油を含み、シナモンが香る。合わせるものは、甘さに負けないか、逆に切るか。
伝統的なのは甘口のワイン。モスカテルやシェリーの甘口が、菓子の甘さと同じ方向で重なります。ワインで浸したトリハスなら、同系統の赤を少量というのも筋が通る。
切りたければ、酸のあるもの。チャコリのような爽やかな白は意外に悪くありません。温度で表情が変わることも思い出して、しっかり冷やしたい。
そして何より、コーヒー。軽い朝食を摂るスペインでは、午後の間食としてトリハスとコーヒーという組み合わせも見られます。小皿を分け合う流儀に慣れた土地ですから、一切れを二人で分けても構いません。