バルの壁にかかった黒板の、いちばん下。手書きの文字が数行だけ並んでいます。フラン、トリハス、あるいはその日あるもの。飾りはありません。それでも、そこを読むために客は最後まで席を立たない。
ポストレ(Postre)とは、スペイン語で「食後の甘味」。食事の締めくくりに楽しむデザート全般を指す言葉です。フランス菓子のような繊細な装飾は、ここではあまり歓迎されません。卵、牛乳、パン——台所に必ずあるものだけで組み立てた、家庭的で飾らない甘さが持ち味です。
素朴であることは、手抜きの結果ではありません。むしろ逆で、そうなるだけの理由がありました。

ポストレとは
スペインの食事には型があります。前菜(primer plato)、メイン(segundo plato)、そしてポストレ。デザートは追加でも余興でもなく、「第三の皿」として最初から献立に組み込まれている。ここが日本の感覚と少し違うところです。
とはいえ、特別な日のごちそうという顔はしていません。日々の食事を、ただ静かに終わらせるための一皿。バルでは数種類を黒板に書き並べておくのが普通の光景で、選ぶのに悩むほどの数は並びません。豪華さは求められない。卵、牛乳、シナモン——素材の風味がまっすぐ立っていれば、それで充分とされます。タパスから始まった食事が、最後まで小皿の思想で貫かれている、と言ってもいいでしょう。
歴史・由来
多くのポストレの出発点は、修道院だといわれます。ただし、菓子を作るために始まった話ではありません。修道院ではワインの清澄剤として卵白を使っていた。すると、卵黄が大量に余る。捨てるわけにもいかない——そこからフランやナタ(カスタード)といった卵黄菓子が生まれたという説が、広く知られています。ワイン造りの副産物が、そのまま菓子文化になったわけです。
トリハスの出自も似ています。硬くなったパンを無駄にしないための知恵。パンは土地ごとに違う顔を持ちますが、スペインのパンがどれも日持ちを前提にしているぶん、余ったパンの使い道は常に考えられてきました。宗教行事の季節に食べる習慣は、いまも残っています。
つまりスペイン菓子の根底に流れているのは、甘いものへの欲望というより、捨てないという構えです。
代表的なポストレ
フラン(Flan) ― 卵と牛乳、砂糖だけで作るカラメル風味のプリン。スペインでもっともポピュラーなポストレです。なめらかな舌ざわりと、上からかかるほろ苦いカラメルソース。材料表を見れば、これ以上削れないところまで削られています。
トリハス(Torrijas) ― 牛乳や卵液に浸したパンを揚げ焼きにし、シナモンシュガーをまぶした一品。フレンチトーストの親戚ですが、こちらのほうがずっと濃厚。復活祭の時期の定番として親しまれています。
クレマ・カタラーナ(Crema Catalana) ― カタルーニャ発祥のカスタードクリームに、表面を焦がしたパリパリのカラメル層をのせたもの。フランスのクレームブリュレの原型ともいわれます。焦がして極まるこの一皿は、カタルーニャという土地の気質そのものです。同じくチュロスをチョコラーテに浸す習慣も、スペインの甘味が「浸す・混ぜる」ことを恐れない証拠でしょう。

味わいのポイント
ここが肝心なところですが、スペインのポストレは甘いだけで終わらせません。
フランのカラメルソースには苦味がある。トリハスには塩をひとつまみ振る。クレマ・カタラーナは表面をあえて焦がす。どれも、甘さの純度を上げるのではなく、逆方向の味を一滴だけ足す作りです。塩の使い分けが料理を変えるという発想は、菓子の側にもきちんと届いています。
もうひとつ、冷やして食べるものが多い。薪火で焼いた温かい皿の後に、冷たい甘味が来る。口の中がすっと軽くなって、食事が終わる。この順番までが設計に入っています。
料理・ワインとの相性
ポストレの役目は、コチニージョ(子豚のロースト)やコシード(スペインの煮込み)のような滋味深い皿の後に置かれてこそ、はっきりします。濃いものの後だからこそ、素朴な甘さが効く。祝祭の食卓をトゥロンで締めるのと、発想は同じです。
合わせるなら、伝統的には甘口のシェリーやモスカテルのような酒精強化ワイン。当店ではその日の一皿に応じて、熟成の進み方まで見ながら一杯をお選びしています。芦屋・苦楽園の店内で、薪料理の余韻とともに味わうポストレ。旅の終わりに近い味がします。
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